「山姥(やまんば)」

日時 2022年5月1日(日) 午前11時開始 (私の出演は午後4時ころからになります)
場所 国立能楽堂
東京都渋谷区千駄ヶ谷4-18-1
JR千駄ヶ谷駅徒歩5分、地下鉄大江戸線国立競技場駅5分、新都心線北参道駅5分
地図 下に国立能楽堂のアクセスマップがあります。
演能時間 約1時間40分 
番組表 ここをクリックしてください。(PDFファイルです)
会場にも用意してありますが、事前にご入用の方はお知らせください。お送りします。

ご注意
入場は無料です
録音、録画は事前の許可が必要です。
ドレスコードはありませんので、気楽な服装でおいでください。また、いつ入場していただいても結構ですが、上演中に入場する場合は周りの方にご配慮ください。
なお、コロナ対策のため、入口での消毒・検温がありますのでご協力ください。できればマスク着用でお願いします。
あらすじ
都で山姥の曲舞(くせまい)を謡って人気を博した遊女・百魔山姥(ひゃくまやまんば)が親の13回忌供養のため、従者を伴って信濃の善光寺参詣に出かける。越中(富山県)と越後(新潟県)の国境から親不知を避けて、上路越の山道に入ると、急に日が暮れる。一行が途方に暮れていると女が現れ、一夜の宿を貸そうと申し出る。そして、その代わりに曲舞を謡って聞かせろと所望する。問答するうち、女は徐々に自分の本性は山姥であることを現し、自分のお陰で有名になったのにすこしも気にかけてくれないと恨み言を言う。そして月の出る夜半に曲舞を謡ってくれれば、本当の姿を見せてやろうといって、消え失せる。
   (中入)
一行を案内してきた在所のものが土地の話や山姥の出自を面白く語り、百魔山姥が約束通り曲舞を謡い始めると、杖を突いた山姥が現れる。山姥は自分が住む山や渓谷の様子を語り、昔貴人と行き会った経緯を話す。また輪廻から逃れられない苦しみを吐露する。そして、曲舞に合わせて舞い始める。舞が終わると、名残を惜しみつつ、暇乞いをして四季の山巡りの様子を見せ、峰を翔り、谷に声を響かせたかと思うと、いずこへか消えてしまう。


(作画は山井綱雄師の弟子、村岡聖美師。今回、ツレ百魔山姥を演じていただきます)

(後シテの画像をクリックすると拡大)

鑑賞の手引き

(山姥とは)
日本各地で見られる伝説には、山に住む老婆(または女の鬼)が、旅人に宿を貸し、寝入った隙に殺して食うというのが多く伝わっている。能「黒塚(安達ケ原)」の鬼の姿に近い。これは口減らしのための 棄老(姥捨て)の慣行から来ていると言われている。
しかし、この能では「塵が積って山姥となれる」と謡われ、アイ狂言では「落ちたドングリに木の葉が絡まって生まれる」「山芋の野老に塵芥がつき、野老の髭が白髪になって山姥になる」「木戸の柱に蔦葛が絡んで山姥になる」と説明されている。このことから、山姥は人間ではなく、塵や植物などの自然物が変異して生まれたと見做されており、さらに、「山は塵土よりおこって・・・」から、山と同根であり、自然の霊気が凝縮したものとして設定されている。旅の一行が恐れた人を襲う鬼でなく、「木こりの重荷を助けたり」「紡績の糸繰を手伝ったり」と人にやさしい鬼である。また一面、「私のお陰で有名になったのに、ちっとも顧みない」とか「自分の評判を聞きたい」など、とても人間臭い鬼でもある。
なお、土蜘蛛を退治した源頼光の四天王の一人、坂田金時(金太郎)の出生伝説に、山姥の身体に「赤い雲から出た雷光が入って、金太郎を身ごもった」というのがある。喜多川歌麿も山姥が金太郎を養育する浮世絵を多数描いている。
 
(上路越)
この話の舞台は、新潟県の西端、親不知の裏山にある上路(現: 新潟県糸魚川市大字上路)から坂田峠に向かう山中。海岸沿いの道は「親不知・子不知」といわれ、波にさらわれ遭難が絶えなかったため、冬など海が荒れるときは迂回路として使われた。道は能に謡われるような険路でなく、標高610mの坂田峠を越え、青海川沿いに下り、糸魚川に出る道であったようだ。しかし、峠から南へ山を登ると、白鳥山(1287m)や朝日岳(2418m)、白馬岳(2932m)が連なる後立山連峰であり、まさに「巌峨峨たり」という風景が展開する。白鳥山の山中には山姥が住んだといわれる「山姥の洞」がある。
   
 現在の上路集落    集落の地図(クリックすると拡大)
 
 山姥神社    山姥の日向ぼっこ石
 
  鼓の滝 (山姥の洞の上部にある)
この滝の音に合わせて山姥が舞ったという。
   ← 山姥の洞(白鳥山の頂上下)
親不知海岸→

道路が通ったのが明治18年。
それまでは海岸の波打ち際を
歩いた。波にさらわれて遭難も
多かった。

   道路までの高さ80m

金太郎(坂田金時)にまつわる伝説上の遺構もある。
 金太郎のぶらんこ(藤つる) 金太郎のお手玉石
(注:山姥の洞と鼓の滝の映像はhttp://www.suzumenokai1114.sakura.ne.jpから拝借、その他の写真は、日本山岳会・横断山脈研究会の長岡氏からいただいた。一部修正・加工あり)

(百魔山姥の曲舞)
都で山姥の山巡りする様子を曲舞にして、喝采を博した百魔山姥は遊君(芸能を生業とする女性)。後の歌舞伎の祖となる出雲阿国に連なります。曲舞は能以前からあった芸能で、平安時代の白拍子舞が原点といわれる。特徴は鼓の伴奏に合わせて、謡い、舞うスタイルで、観阿弥がこれを能に取り入れて能を確立した。現在、能ではストーリーの中ほどから後半にかけて「クセ」と呼ばれるこのパートがある。「山姥」では、後半の「そもそも山姥は、生所知らず、宿もなく~よしあしびきの山姥が山めぐりするぞ、苦しき」までがクセにあたる。「山姥」のクセは古い形を残しているといわれている。その舞の様子は江戸前期の絵師、狩野長信の描いた「花下遊楽図屏風」(国宝・ 東京国立博物館蔵;その髙解像度画像による複製)に見られる。右側の3人の踊り手の所作が山姥の所作によく似ている。(長岡氏の撮影・提供)


見どころ/聞きどころ・・・演者の想い

前半はシテが現れ、舞台中央に置かれた床几に腰かけて語るだけで、ほとんど動きがありません。シテ(山の女)は初めは静かに旅の一行に語りかけます。語りの大部分がシテの科白(せりふ)で、時々よそを向いて独り言や恨み言もいいますが、徐々に本性を現してゆきます。そして鬼女(女性というより中性)そのものとなります。姿かたちは変わりませんので、声の調子で変化をつけてゆきます。どこで鬼に変わるのかを楽しみにしてください。
一方、後半は初めから終わりまで鬼です。のっしのっしと舞台上を練り歩いたり、床几に腰かけてり深山の様子を見せたり、風のごとく颯爽と山を巡ったりと動きの多い舞台です。最終盤で「春は梢(こずえ)に咲くかと見えし・・・」と謡い、四季の山めぐりの所作をしますが、花追い人の私なら、さしずめ「春は野に花を求め、夏は山に花を探し、秋は谷に紅を愛で、冬は舞台に花を咲かす」といったところでしょうか。途中を省略しても1時間40分と長い舞台ですが、時間を忘れて頂けるよう演じたいと思います。

山姥は自然の霊気。その姿を借りて、最近亡くなった友人たちを)追悼します。
 吉田斗司夫氏(花友-青いケシ探索や情報をいただく、青いケシ研究会代表)
 森田武男氏(花友・山友-中国での花探索、北アルプス登山、日本山岳会友)
 橘憲二氏(仕事上の友人-仕事上だけでなく、琵琶湖でヨット帆走やキャンプ活動する)
 前田肇氏(仕事上の友人-市場調査について教えを受ける)
 池島正勝氏(高校の同級生-横浜市で学童の自然教育活動を行う)
(お断り:追悼についてご遺族の了承を得ておりません。いわば勝手追悼です)

なお、長岡氏からのご依頼で、下記の方も追悼いたします。
 奥井清氏(長岡氏の畏友で、山と花、温泉が大好きな由;日本山岳会と日仏薬学会)

また、あわせて新型コロナやロシア軍の侵略で亡くなった多くの人々を慰霊したいと思います。

 
★演能のビデオを作成します
私が舞った「山姥」を録画したDVDまたはBD(ブルーレイディスク)を作成し、1部1000円(送料200円)で販売します。代金1000円は全額、ウクライナ難民支援に寄付いたします。
ご希望の方は、媒体(DVDまたはBD)、部数をmatsunaga*insite-r.co.jp(*を@に替えて)またはここをクリックしてお申し込みください。発送は6月上旬を予定します。

 

謡曲 詞章 (ここをクリックすると印刷用のPDFが出ます)

登場人物 前シテ-山棲の女、後シテ-鬼女、ツレ-百魔山姥
ワキ-従者、ワキツレ-従者、アイ-在所のもの

 
(ツレ、ワキ、ワキツレ、アイが登場し、舞台へ入る。ツレは脇柱の前で座る。ワキとワキツレは道行を語る)
ワキ
ワキツレ
善き光ぞと影頼む。善き光ぞと影頼む仏のみ寺尋ねん。
ワキ これは都がたに住居する者にて候。さてもこれにわたり候おん方は。百魔山姥と隠れなき遊君(ゆうくん)にてござ候。山姥の山めぐりするといふ事を曲舞(くせまい)に作り、おん謡い候により京童(わらんべ)のつけ申したる異名にてわたり候。
また当年はおん親の十三年に当らせたまいて候ほどに、善光寺へおん参りありたきよし仰せ間、われらおん供申し、ただ今信濃の国へと急ぎ候。
ワキ
ワキツレ
(以下の詞章は時間の関係で省略されます)
都を出でてさざ波や。志賀の浦舟こがれ行く、末は荒乳(あらち)の山越えて、袖に露散る玉江の橋、かけて末ある越路の旅、思ひやるこそ遥かなれ。こずえ波立つ塩越の、梢波立つ塩越の、安宅の松の夕煙。消えぬ憂き身の罪を切る弥陀の剣の砺波山。雲路うながす三越路(みこしじ)の、国の末なる里問えば、いとど都は遠ざかる。境川にも着きにけり。境川にも着きにけり。
ワキ おん急ぎ候ほどにこれははや、越後と越中の境川におん着きにて候。これより道あまたあるよし申し候ほどに。在所の者に尋(たず)にょうずるにて候。
(ツレ・ワキツレは脇座下に座り、ワキは橋掛リのアイと問答。戻ってツレにその内容を伝える)
ワキ いかに申し候。善光寺への路次(ろし)の様体を尋ね申して候えば、これより道二つあるよし申し候。中にも上路越(あげろごえ)と申す道の候。これは己身(こしん)の弥陀唯心の浄土にたとえられたる道にて候。さりながらおん乗物はかなわぬよし申し候。
ツレ げにや常に承る。西方の浄土は十万億土とかや。ここはまた弥陀来迎の直路(ちょくろ)なれば、上路の山とやらんに参り候ベし。とても修行の旅なれば乗物をこれに留めおき、徒歩(かち)はだしにて参り候べし。道しるべしてたび候え。
(ワキ、再びアイと問答の後、ツレの元へ戻る)
ワキ やがておん立ちあろうずるにて候。
あらふしぎや。いまだ暮れまじき日にて候が、俄(にわか)にくれて候はいかに。
 (ワキ、アイ問答、唐織着流姿の里女(シテ)が幕の内から声を掛ける)
シテ のうのう、お宿参らしようのう。
アイ ヤ、お宿参らしょうと申し候。
シテ これは上路の山とて人里遠き所なり。お宿参らせ候わん。
ワキ これは都より、初めて善光寺へ参る者にて候が、にわかに日の暮れ前後を忘(ぼう)じて候所に、嬉しくも承り候ものかな。さらばこう参り候。
 (シテ、舞台に入り、シテは床几に腰かけ、一行は下に座る)
シテ 今宵(こよい)のお宿参らする事、とりわき思う子細あり。承りおよびたる山姥の歌の一節謡て聞かさせたまえ。鄙(ひな)の思い出と思うべし。
(シテ、正面へねじ向く)
そのためにこそ日を暮らし、お宿をも参らせて候え。
(シテ、脇の方を向く)
いかさまにても謡わせたまえ。
ワキ これは思いもよらね事を承り候ものかな。さて誰(たれ)とご覧ぜられて山姥の、歌の一節とはご所望候ぞ。
シテ いや何をか包ませたもうらん。
(脇柱の方へねじ、ツレを見る。さらに正面にねじ、独り言をいう)
あれにましますは百魔山姥にてはさむらわずや。まずこの歌の次第とやらんに、よしあしびきの山姥が、山めぐりすると作られたり。あら面白や候。
(ワキへ向く)
このおん名は、曲舞によりての異名にてわたらせたもう。さてまことの山姥をば何とかろしめされて候ぞ
ワキ まことの山姥は山に住む鬼女とこそ、曲舞には見えて候え。
シテ 山に住む鬼女とは女の鬼とや。よし鬼なりとも人なりとも。山に住む女ならばわらわが身の上にてはさむらわずや。
(ツレへ向く)年頃色には出ださせたもう、言葉の草の露ほどもおん心にかけたまわぬ。怨み申しに参りたり。
(正面へ向く)道を極め名を立てて、世情万徳(せじょうばんとく)の妙果(みょうか)を開く事、この一曲の故(ゆえ)ならずや。しからばわらわが名をもとむらい、舞歌音楽の妙文(みょうもん)の声、仏事をもなしたまわば、などかわらわも輪廻を離れて、帰性(きしょう)の善所に至らざらんと、(ツレへ向く)怨みを夕山(いうやま)の鳥獣(とりけだもの)も鳴きそえて、声を上路の山姥が霊鬼これまで来たりたり。
ツレ ふしぎの事を聞くものかな。さてはまことの山姥の、これまで来たりたまえるか。
シテ われ国々の山めぐりに、今日しもここに廻り会う事、わが名の徳を聞かんためなり。謡いたまいてさりとては、わが妄執(もうしゅう)を晴らしたまえ。
ツレ このうえはとかく辞しなば恐ろしや。もし身のためや悪しかりなんと、はばかりながら時の調子をとるや拍子を進むれば。
シテ しばさせまえ、とてもさらば。暮るるを待ちて月の夜声に、謡いたまわばわれもまた、まことの姿を現すべし。すわやかげろうタ月の。さなきだに暮るるを急ぐ深山辺(みやまべ)の。
(シテは立ち上がり、ツレに向き会う)
地謡 暮るるを急ぐ深山辺の。雲に心をかけ添えて、その山姥が一節を夜すがら謡いたまわば、その時わが姿をも現し、衣(きぬ)の袖つぎて、移舞(うつりまい)を舞うべしと、いうかと見ればそのまま、かき消すように失せにけり。かき消すように失せにけり。(シテは正面から右へ行き、シテ柱前で正面へヒラキをし、シテ柱脇から橋掛へ出て、幕に入る)
 
(シテ、中入り。アイが舞台に出て、山姥の成り立ちについて語り、狂言座に退く。やがてワキはツレに曲舞を謡うよう促す)
ツレ あまりの事のふしぎさに、さらにまことと思ほえね。鬼女が言葉を違えじと。
ワキ 松風ともに吹く笛の。
ワキツレ 松風ともに吹く笛の。
ワキ
ワキツレ
声澄みわたる谷川に、手まず遮(さえぎ)る曲水の、月に声すむ深山かな。月に声すむ深山かな。
(「一声」囃子が鳴り、鹿背杖をついた山姥(後シテ)が登場。橋掛に出て謡う)
シテ あらものすごの深谷やな。あらものすごの深谷やな。寒林(かんりん)に骨を打つ。霊鬼泣く泣く前生(ぜんじょう)の業(ごう)を恨み、深野(じんや)に花を供(くう)ずる天人、かえすがえす帰性の善を喜ぶ。いや、まこと。善悪不二(ぜんなくふに)。何をか恨み、何をか喜ばん。万箇(ばんこ)目前の境界。懸河(けんか)びょうびょうとして、巌(いわお)峨峨(がが)たり。山また山。いずれの工(たくみ)か青岩(せいがん)の形を削りなせる。水また水。誰が家にか碧潭(へきたん)の色を染め出だせる
ツレ 恐ろしや。さももの凄き宵の問の、月も木深(こぶか)き山陰より、その様化(さまけ)したる顔ばせは、いかさま先に聞えつる、その山姥にてましますか。
シテ とてもはや穂に出で初(そめ)し言の葉の、気色(けしき)にも知ろしめさるべし。われにな恐れたまいそとよ。
ツレ この上は恐ろしながら烏羽玉(んばたま)の暗まぎれより現れいずる、姿言葉は人なれども。
シテ 髪にはおどろの雪を頂き、
ツレ 眼(まなこ)の光は星のごとく、
シテ さって、面(おもて)の色は、
ツレ 狭丹(さに)塗りの、
シテ 軒の瓦の鬼の形。
ツレ 今宵始めて見ることを、
シテ 何に譬(たと)えん、夕月の。
地謡 鬼一口の雨の夜に。鬼一口の雨の夜に。雷さわぎ、恐ろしき。その夜を思い白玉か。何ぞといいし人までも、わが身の上になりぬべき。浮世語りも恥ずかしや。浮世語りも恥ずかしや。
シテ 春の夜の一時(ひととき)を千金(せんきん)にもかえじとは、花に清香(せいきょう)月に影。これは思いのたまさかに、ゆき会う人の歌の一節。その一刻もあたら夜に、はやはや謡いたもうべし。
ツレ げにこのよはともかくも。いうに及ばぬ山中に。
シテ 一声(いっせい)の山鳥、羽をたたく。
ツレ 鼓は滝波、
シテ 袖は白妙(しろたえ)、
ツレ 雪をめぐらす木(こ)の花の、
シテ なにわの事か、
ツレ 法(のり)、
シテ ならぬ。
地謡 よしあしびきの山姥が。よしあしびきの山姥が山めぐりするぞ苦しき。
シテ それ山といっぱ塵土(ちりひじ)より起って、
地謡 天雲かかる千丈(せんじょう)の峰。
シテ 海は苔(こけ)の露よりしただりて、
地謡 波涛(はとう)をたたむ、万水(ばんすい)たり。
シテ 一洞(いっとう)むなしき谷の声。梢(こずえ)にひびく山彦の、
地謡 無声音(むしょうおん)を聞くたよりとなり、声にひびかね谷もがなと、望みしもげにかくやらん。
シテ ことにわが住む山家(さんか)の景色、山高うして海近く。谷深うして、水遠し。
地謡 前には海水じようじようとして月真如の光をかかげ、後には嶺松(れいしょう)巍巍(ぎぎ)として、風常楽(じょうらく)の夢をやぶる。
遠近(おちこち)のたつぎも知らね山中に、おぼつかなくも呼子(よぶこ)鳥の声すごきおりおりは、伐木(はつぼく)とうとうどして、山さらにかすかなり。法性(ほっしょう)峰そびえては、上救菩提(じょうぐぼだい)を現し、無明谷深きよそおいは、下化衆生(げけしゅじょう)を表して、金輪際に及べり。
(シテ床几から立ち、クセを舞う)
地謡 そもそも山姥は生所(しょうじょ)も知らず宿もなく、ただ雲水を便りにて。至らね山の奥もなし。
シテ しかれば人間にあらずとて、
地謡 隔つる雲の身を変え、かりに自性(じしょう)を変化して、一念化生(けしょう)の鬼女となって目前に来たれども、邪正一如(じゃしょういちにょ)と見る時は、色即是空そのままに、仏法あれば世法あり。煩悩あれば菩提あり。仏あれば衆生あり。衆生あれば山姥もあり。柳は緑、花は紅(くれない)の色色。さて人間に遊ぶこと。ある時は山賎(やまがつ)の樵路(しょうろ)に通う花の陰、休む重荷に肩を貸し、月もろともに山を出で里まで送るおりもあり。またある時は織姫の五百機(いおはた)たつる窓に入って。枝の鶯(うぐいす)糸繰り、紡績(ぼうせき)の宿に身を置き、人を助くる業をのみ。賎(しず)の自に見えね鬼とや人の見るらん。
シテ 世を空蝉(うつせみ)のから衣。
地謡 払わね袖におく霜は夜寒(よさむ)の月に埋もれ、うちすさむ人の絶え間にも千声万声(せんせいばんせい)の砧(きぬた)に声のしで打つは、ただ山姥が業(わざ)なれや。都に帰りて、夜語りにせさせたまえと、思うはなおも妄執か。ただ打ち捨てよ何事も、よしあしびきの山姥が山めぐりするぞ苦しき。
シテ あしびきの、
地謡 山めぐり。
(シテは後見座へ行き、杖に持ち替えて、山めぐりの所作を行う。舞い終えて、シテ柱へ行く
シテ 一樹の陰一河の流れ、みなこれ他生(たしょう)の縁ぞかし。ましてやわが名を夕月の、浮世をわたる一節も、狂言綺語(きょうげんきぎょ)の道すぐに、讃仏乗(さんぶつじょう)の因(いん)ぞかし。あらおん名残惜しや。暇申して帰る山の。(杖を捨て、扇を開く)
地謡 春は梢に咲くかと待ちし、
シテ 花を尋ねて山めぐり、
地謡 秋はさやけさ影を尋ねて、
シテ 月見るかたにと山めぐり、
地謡 冬は冴えゆく時雨の雲の、
シテ 雪をさそいて山めぐり。
地謡 めぐりめぐりて輪廻を離れぬ妄執の雲の、
シテ 塵積って、山姥となれる。
地謡 鬼女が有様(ありさま)見るや見るやと、峰にかけり、谷にひびきて、今までここにあるよと見えしが山また山に、山めぐり。山また山に、山めぐりして、ゆくえも知らずなりにけり。
(シテ、留足を踏み、橋掛を帰り、幕へ入る) 



2022.4.14 upload
2022.4.26 revised


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