「融(とおる)」のご案内

6年ぶりの能です。前回(2013年)は源氏物語を素材とする「葵上」から、影のヒロイン、六条御息所を勤めましたが、今回は光源氏のモデルとなった左大臣源融を務めます。前シテは汐汲みの老人で、老いを嘆き、昔を懐かしみます。そして後シテの融の亡霊は、豪奢な邸宅での遊びの模様を語り、舞い、名残を惜しみつつ、月の中に消えてゆきます。優雅さと懐古を表現できればと願っています。

前回の「葵上」はここをクリックしてください。

日時 2019年9月22日(日) 午前10時開始 (私の出演は12時半ころからになります)
場所 国立能楽堂
東京都渋谷区千駄ヶ谷4-18-1
JR千駄ヶ谷駅徒歩5分、地下鉄大江戸線国立競技場駅5分、新都心線北参道駅5分
地図 下に国立能楽堂のアクセスマップがあります。
演能時間 約1時間25分 
番組表 ここをクリックしてください。(PDFファイルです)
ご注意 入場は無料です。
録音、録画は事前の許可が必要です。
ドレスコードはありませんので、気楽な服装でおいでください。また、いつ入場していただいても結構ですが、上演中に入場する場合は周りの方にご配慮ください。
あらすじ
都へ上ってきた旅僧が六条河原の院あたりで休んでいると、桶を担いだ老人が現れる。この地の謂れを聞くと、左大臣源融の屋敷跡で、昔、融が東北の塩釜の風景を都に作り、塩を焼かせて、一生を遊び暮らしたが、今は誰も面倒を見ていないと答え、昔を懐かしみ、自らの老いを悲しむ。また、僧の尋ねに応じて、音羽山や大原、嵐山など都の名所を教える。
そして桶を池に入れ、塩を汲むかと思うと、立ちどころに消え失せる。
僧は通りがかった町人に、この話をすると、町人は「それは源融の亡霊」だと教える。夜半、 僧の前に源融の亡霊が現れ、生前の豪奢な遊びの様子を語り、舞い、名残を惜しみつつ、明け方の月の中に消えてゆく。





     (写真は山井綱雄師、
     撮影は辻井清一郎氏)
 

解説

(能の構成)
世阿弥作。前場、中入、後場の三場建て構成で、前シテは汐汲みの老人、後場は融の亡霊が登場する「夢幻能」形式。
江戸時代の正式な能会(式能)では最後の演目で、五番目物と言うジャンルです。鬼や神体、天狗、そして貴人などがシテとなります。能で男の貴人が主人公になっているのは、平家の公達を除けば、在原業平をモチーフとした「小塩」と「雲林院」(後シテは藤原基経)、深草少将「通小町」、藤原実方「実方」、村上天皇「絃上」くらい。(他流では光源氏が主役の「須磨源氏」「住吉詣」があります)
今回の演能には「クツロギ」の特殊演出(小書)になっていて、通常の能では、前シテの汐汲み老人が登場し、老いのわびしさを語りますが、この部分を省略し、代わりに後シテが舞の途中で橋掛りへ行き、昔を懐かしむ風に舞ます。

(源融の人物像と時代背景)
源融は実在の人物で、第52代嵯峨天皇の皇子(822-859)。祖父は桓武天皇。いとこの子に在原業平がいる。子孫には大江山の鬼退治で有名な源頼光四天王の筆頭、渡辺綱。嵯峨天皇が皇室経費を節減するため、49人いたとされる皇子皇女に姓を与え臣下とした。融らも源姓を賜り臣下に降下する。(嵯峨源氏の始まり)
桓武天皇が開いた平安朝も安定し、臣下に下った皇子たちも政治の中枢に登る。また、薬子の乱の後は、乱の平定に功績のあった藤原北家(冬嗣)が勢力を伸ばし、王族に対抗するようになる。官僚制度も整い始め、王朝は政治から文化・芸術へ軸足を移す。そんな中、融は才覚を発揮し、権力の階段をのぼり、最高位の左大臣にまで上り詰める。しかしその後、藤原基経との政争に敗れ、蟄居を余儀なくされる。政治的な道を閉ざされた後、邸宅造営や文芸に精力を注ぐ。
六条河原の院は、源氏物語の光源氏の邸宅のモデルであり、文芸サロンメンバーの在原業平は若き光源氏、そして融は壮年期から晩年にかけての光源氏のモデルとなる。この邸宅は後に、政治的確執のあった宇多天皇に贈られ、上皇の住む仙洞御所となるが、融の幽霊が出るといわれた(今昔物語)。
百人一首に融の歌がある。「陸奥(みちのく)のしのぶもぢずり誰(たれ)ゆゑに乱れむと思ふ我ならなくに」

(京名所案内)
六条河原の院は現在の東本願寺渉成園(枳殻邸)の場所にあった。当時は高層ビルなどなく、東山から南の宇治や淀、北は大原、西は嵐山まで見通せたはずである。汐汲みの老爺は、田舎から登ってきた旅僧の求めに応じて、それぞれの名所を教える。
金春流は方角については、かなり正確な所作を行う。目付柱(舞台左手前の柱)は東の方角、シテ柱は南、笛柱は西、脇柱は北と定まっている。月は東から上がるので、目付柱を見て月が登ったという。音羽山は東山にある(現在の音羽山は山科)ので同じ方向を見る。そして、東山から南の宇治方面に続く名所を語る。(他流では方角はまちまち)。その金春流でもどういうわけか大原や小塩は西の方角になる。(ワキが動きやすいようにと所作を変えたという説もある)
舞台図と実際の地図を下に並べたので参照してください。(実際の地図は画像をクリックすると拡大します)
 
学生時代、京都に暮らしながら、こうした名所に行ったことがありませんでした。

(もう一人の主役、またはタイムキーパー)
六条河原の院の庭は「千賀の塩竈」を模したものであるが、千賀の浦は現在の塩釜湾で、塩土老神翁が製塩法を伝えたという伝説があり、塩を作る塩釜も残されている。当時の製塩法は、海藻を焼いたり、海藻に海水を掛けて濃い塩水(鹹水)を作り、釜で煮詰め、塩を取った。浜にはいくつも塩釜が並び、夜、こうこうと月が照らす。そんな風景が都人の興を引き、月の名所となり、古今集をはじめ、多くの和歌に詠まれてきた。千載和歌集に「塩釜の 浦吹く風に 霧り晴れて 八十島かけて すめる月影 」(藤原清輔)がある。
この能でも「月もはや」と前シテの汐汲みの老爺が謡いだし、「月の都に入りたもう」と後シテの融の大臣が謡い収める。黄昏時、「籬が島」の上に出る月は東山から登り、「鳥が鳴く」明け方の月は西に沈む。ドラマの進行に合わせて月は刻々とその位置を変えてゆく。シテの動きもそれに合わせ、前シテは目付柱を眺め、後シテは地裏(地謡座)を見る。
シテの所作から舞台上にはない月を感じて貰えれば幸いである。

(花の塩竈)
高山植物にシオガマという花がある。 濃い赤紫色の花で、本州中部以北の高山に分布する。花の形は、先端が鳥の嘴状になっている。塩釜の形ではない。では何故シオガマと名づけられたのか。
こんな説がもっともらしい。
上記の「千賀の塩竈」は浜にあり、風光明媚だ。つまり、
浜できれいなものは塩釜であり、「葉まできれい」だからシオガマ
となったという。一種のダジャレからついた名である。

      (タカネシオガマ 北アルプス水晶岳)クリックで拡大
演者の想い・見どころ/聞きどころ
能楽師の世界では、この「融」は告別や葬送の際に詠われます。金春流第79代宗家の金春信高師の葬儀でも、門下の能楽師が最後の一節「影傾きて~」と斉唱しました。昨年6月、父が亡くなりましたが、ヒマラヤの山中にいて葬儀にも出ることができませんでした。私なりの葬別(追善)として舞います。(ちなみに、母親については「海人」を舞囃子で演じました)

前半はシテの語り(河原の院の情景)やワキとの掛け合い(名所教え)が中心で、動きも少ないのですが、その分、聞きどころも多くあります。一方、後半は橋掛りで名乗りした後は、「早舞」を舞い、曲水の宴や釣り・狩りの遊びの様子を本舞台や橋掛りを目いっぱい使って表します。何もない舞台の上に、月の映る池を広げ、島を浮かべ、残照に霞む山々を並べ、そして中秋の月を照らせれば幸いです。
今回は初めての国立能楽堂の舞台。本舞台の広さはどの能楽堂でもほぼ同じですが、揚幕から本舞台までの橋掛りが13mと長く、このため距離感がなかなかつかめません。
国立能楽堂 地図
(画面をクリックすると拡大します)

謡曲 詞章 (ここをクリックすると印刷用のPDFです)

登場人物 前シテ-汐汲みの老爺、後シテ-左大臣源融の霊、
ワキ-旅の僧、アイ-京、六条あたりの住人

 
(ワキが登場し、橋掛りで道行を語る)
ワキ これは諸国一見の僧にて候。われいまだ都を見ず候ほどに、この秋思い立ち、都へのぼり候。思い立つ心ぞしるべ、雲を分け、舟路を渡り、山を越え、千里(ちさと)も同じ一足に、千里も同じ一足に、夕べを重ね朝毎の、夕べを重ね朝毎の、宿の名残りも重なりて、都にはやく着きにけり。都にはやく着きにけり。急ぎ候ほどにこれははや、都に着きて候。このところをば六条河原の院とかや申し候。心静かに一見せばやと、存じ候。

(ワキ、舞台に入り、脇柱の前に座る)

(シテが桶を担いで幕より出て、そのまま舞台に入る)
シテ 月もはや、出汐(でじお)になりて、塩竈(しおがま)の、うらさびまさる、夕べかな。余りに苦しう候ほどに、しばらくこのところに休まばやと思い候。
(桶を下に置く)

ワキ いかに、尉殿(じょうどの)。おん身はこのあたりの人にてましますか。
シテ さん候。この所の汐汲みにて候。
ワキ ふしぎやな、ここは海辺にてもなきに、汐汲みとはあやまりたるか、尉殿。
シテ あら、なにともなや。さて、この所をばいずくと知ろし召されて候ぞ。
ワキ さん候。この所を人に問えば、六条河原の院とかや申し候。
シテ さればその河原の院こそ、塩竈の浦候よ。陸奥(みちのく)の千賀(ちか)の塩竈を移されたる、都のうちの海辺なれば、名に流れたる河原の院の、河水をも汲め、池水をも汲め。ここ塩竈の浦人ならば、汐汲みとなど、おぼさぬぞや。
ワキ げにげに陸奥の千賀の塩竈を都のうちに移されたるとは承り及びて候。さて、あれなるは籬(まがき)が島候か。
シテ さん候。あれこそ籬が島候よ。融の大臣(おとど)、常はみ舟を寄せられ、ご酒宴の遊舞(ゆうぶ)さまざまなりし所なり。や。月こそ出でて候え。
ワキ げにげに月の出でたるぞや。面白や、あの籬が島の森の梢(こずえ)に、鳥の宿(しゅく)し、囀(さえず)りて、四門(しもん)に映る月影までも、古秋(こしゅう)に帰る身の上かと、思い出でられて候。
シテ ただ今の面前の景色を、遠き古人の心まで、お僧のおん身に知らるるとは、もしも賈島(かとう)が言葉やらん。
ワキ 僧はたたく月下の門。
シテ 推すも。
ワキ 敲(たた)くも。
シテワキ 古人の心。いま目前の秋暮(しゅうぼ)にあり。
地謡 げにやいにしえも、月には千賀の塩竈の、月には千賀の塩竈の、浦わの秋もなかばにて、松風も立つなりや。霧の籬の島隠れ。いざわれも立ち渡り、昔の跡を陸奥の千賀の浦わを眺めんや。千賀の浦わを眺めん。
ワキ なおなお陸奥の千賀の塩竈を都のうちに移されたるいわれ、おん物語候え。
シテ むかし嵯峨天皇の御宇(ぎょうお)に、融の大臣(おとど)と申しし人、陸奥の千賀の塩竈の眺望を聞こし召し及ばせたまい、あの難波の御津(みつ)の浦よりも、日毎に潮を汲ませ、ここにて塩を焼かせつつ、一生御遊(ぎょゆう)の便りとしたもう。
そののちは相続してもてあそぶ人もなければ、浦はそのまま干潮(ひしお)となって、池辺によどむ溜り水は、雨の残りの古き江に、落葉散り浮く松陰(まつかげ)の、月だに澄まで秋の風、音のみ残るばかりなり。
されば、歌にも
「君まさで、煙たえにし、塩竈の、うら寂しくも見え渡る」かなと、
貫之(つらゆき)も詠(なが)めて候。
地謡 げにや眺むれば、月のみみてる塩竈の、うら寂しくも荒れはつる、跡の世までも潮じみて、老(おい)の波もかえるやらん。あら、むかし恋しや。
恋しや、恋しやと、慕えども、願えども、かいも渚(なぎさ)の浦千鳥。音をのみ鳴くばかりなり。音をのみ鳴くばかりなり。
ワキ ただ今のおん物語に落涙(らくるい)つかまつりて候。さて見え渡りたる山々はみな名所にて候か。
シテ さん候。いずれもみな名所にて候。お尋ね候え。答え申し候わん。
ワキ まずあれに見えたるは音羽山候か。
シテ さん候。あれこそ音羽山候よ。
ワキ さては音羽山、音に聞きつつ逢坂(おおさか)の関のこなたと詠みたれば、逢坂山もほど近うこそ候らめ。
シテ 仰せのごとく関のこなたと詠みたれども、あなたに当たれば逢坂の、山は音羽の峰に隠れて、この辺よりは見えぬなり。
ワキ さてさて音羽の峰つづき。次第次第の山なみの、名所名所を語りたまえ。
シテ 語りも尽くさじ、言(こと)の葉の、歌の中山、清閑寺。今熊野とはあれぞかし。
ワキ さてその末につづきたる、里一村の森の木立ち。
シテ それをしるべにご覧ぜよ。時雨(しぐれ)もあえぬ秋なれば、紅葉(もみじ)も青き稲荷山。
ワキ 風も暮れ行く雲の端の梢にしるき秋の色。
シテ 今こそ秋よ。名にしおう。春は花見し藤の森。
ワキ みどりの空も陰深き野山に続く里はいかに。
シテ あれこそ夕ざれば、
ワキ 野辺の秋風、
シテ 身にしみて、
ワキ 鶉(うずら)鳴くなる、
シテ 深草山よ。
地謡 木幡山、伏見の竹田、淀鳥羽も見えたりや。眺めやる。そなたの空は白雲の、はや暮れそむる遠山の、峰も小深(こぶか)く見えたるは、いかなる所なるらん。
シテ あれこそ大原や。小塩(おしお)の山も今日こそは、ご覧じ初(そ)めつらめ。なおなお問わせたまえや。
地謡 聞くにつけても秋の風。吹く方なれや、峰つづき。西に見ゆるはいずくぞ。
シテ 秋もはや。秋もはや。なかば更け行く松の尾の、嵐山も見えたり。
地謡 嵐ふけ行く秋の夜の、空澄み、のぼる月影に、
シテ さす、潮時(しおどき)もはや過ぎて、
地謡 隙(ひま)もおし照る月にめで、
シテ 興(きょう)に乗じて、
地謡 身をばげに。忘れたり秋の夜の長物語(ながものがたり)よしなや。まず、いざや汐を汲まんとて、持つや田子の浦。あずまからげの汐衣(しおごろも)。汲めば、月をも袖にもち潮の。汀(みぎわ)にかえる波の夜の。老人と見えつるが、汐曇(しおぐもり)にかき紛れて、跡も見えずなりにけり。跡も見えずなりにけり。

(シテは桶を捨て、橋掛りから幕にいる。中入)
アイ (舞台に入り、ワキと問答。橋掛かりへ戻り、切戸口から出る)
ワキ 磯枕(いそまくら)、苔の衣を片敷きて、苔の衣を片敷きて、岩根の床(とこ)に夜もすがら、なおも奇特(きどく)を見るべしと、夢待ち顔の旅寝かな。夢待ち顔の旅寝かな。
(囃子に乗って、シテが幕から出、一の松で止まる)
シテ 忘れて年を経しものを。まった古(いにしえ)に帰る波の、満つ塩竈の名にしおう、今宵の月を陸奥の千賀の浦わの遠き世に、その名を残す大臣(もうちぎみ)。融の大臣とはわが事なり。われ塩竈に心をうつし、あの籬が島の松陰に、名月に舟を浮かめ、月宮殿の白衣(はくえ)の袖も、三五夜中(さんごやちゅう)の新月の色。千重(ちえ)ふるや雪をめぐらす雲の袖。
地謡 さすや桂の枝枝に
シテ 光を花と散らす粧(よそお)い。
地謡 ここにも名に立つ白河の波の、あら面白や、曲水の杯(さかずき)。うけたり、うけたり。遊舞のそで。
(シテ、早舞を舞う)
地謡 あら面白の遊楽や。あら面白の遊楽や。そも名月のその中に、まだ初月(はんづき)の宵々に、影も姿も少なきはいかなる謂(いわれ)なるらん。
シテ それは西岫(さいしう)に、入り日のいまだ近ければ、その影に隠さるる、たとえば月のある夜は、星の薄きがごとくなり。
地謡 青陽(せいよう)の春の始めには、
シテ 霞む夕べの遠山。
地謡 黛(まゆずみ)の色に三日月の、
シテ 影を舟にもたとえたり。
地謡 また水中の遊魚(ゆうぎょ)は
シテ 釣針と疑い、
地謡 雲上(うんしょう)の飛鳥は、
シテ 弓の影とも驚く。
地謡 一輪もくだらず、
シテ 万水(ばんすい)ものぼらず、
地謡 鳥は池辺の木に宿し、
シテ 魚は月下の波に伏す。
地謡 聞くとも飽(あ)かじ秋の夜の、
シテ 鳥も鳴き、
地謡 鐘も聞こえて、
シテ 月もはや、
地謡 影かたむきて明け方の雲となり、雨となる。この光陰(こういん)に誘われて、月の都に入りたもう粧い、あら名残惜しの面影や、名残惜しの面影。
  (シテ、留足を踏み、橋掛かりを帰り、幕へ入る)