能「高砂」上演のご案内
日時 | 2024年5月3日(金・祝) 午前11時開始(私の出演は午後4時ころからになります) |
場所 | 国立能楽堂 東京都渋谷区千駄ヶ谷4-18-1 JR千駄ヶ谷駅徒歩5分、地下鉄大江戸線国立競技場駅5分、新都心線北参道駅5分 |
地図 | 下に国立能楽堂のアクセスマップがあります。 |
演能時間 | 約1時間20分 |
番組表 | ここをクリックしてください。(PDFファイルです) 会場にも用意してありますが、事前にご入用の方はお知らせください。お送りします。 |
ご注意 |
入場は無料です。 一般の方は録音、録画ができません。 ドレスコードはありませんので、気楽な服装でおいでください。また、いつ入場していただいても結構ですが、上演中に入場する場合は周りの方にご配慮ください。 |
あらすじ 阿蘇の宮の神主・友成が都へ登る途中、相生の松を見るため、高砂に立ち寄りると、老夫婦が現れ、老いを嘆き、落葉を掻いて松の根元を清める。友成が相生の松はどれかと尋ねると、老人はその木を教え、自分は住吉の者で、妻は高砂の者であるといい、夫婦の間には距離は関係ないという。そして、松の謂れやめでたさを説明する。友成が名を尋ねると、住吉と高砂の松の精だと答え、住吉で会おうと小舟に乗って沖へ出てゆく。 (中入) |
![]() (国立能楽堂所蔵 The Noh.comより) |
||
高砂の浦人が現れたので、友成が老夫婦の話をすると、その夫婦は松の精でめでたいことなので、自分の新造船を提供するから住吉に行くようにと勧める。友成一行が月の出とともに小舟に乗り、高砂の浦から一路、住吉へ向かう。 住吉につくと、若い男体の住吉明神が波間から現れ、松の長寿を寿(ことほ)いで颯爽と舞う。そして人々の平安と長寿を願い、悪魔を払って平和な世を祝福するのであった。 (後シテ:金春欣三師 The Noh.comより)⇒
|
|
鑑賞の手引き+α 能と聞けば、「高砂」を思い出すほどポピュラーな曲で、世阿弥が「古今集」仮名序の「高砂、住の江の松も、相生の様に覚え」という一節を元に作曲したと言われている(世阿弥の女婿、金春善竹の作という説もあり)。世阿弥の時代は「相生(あいおい)」という題であった。 時代設定が延喜の頃(醍醐天皇の御代:897年~930年)になっているのは、醍醐天皇が藤原時平や菅原道真を登用して、善政を行い、国が富み、民も豊かな暮らしができた時代(延喜の治)と後世の人が考えているからだが、道真の大宰府追放など政争もあり、実際は権謀術数が渦巻いていたようだ。また、醍醐天皇は臣下の生まれだったが、父親(宇多天皇)が皇族に復帰したことから天皇に上り詰めることができた。歴代天皇の中で、唯一皇族以外の生まれの人物である。また、ワキの友成は実在の人物で初代の阿蘇大宮司、宇治友成で延喜3年(903年)に爵位を授与されている。高砂神社の境内に友成が使った杖が根を張ったという真柏(イブキ)がある。 「高砂」の曲趣は、神が国と民の平安、夫婦和合と長寿を言祝ぐというもので、めでたい内容だ。能では脇能物、神能物、初番目物と分類され、正式な能(式能)では「翁」の次(脇)に演じられる。同種の曲に「養老」や「弓八幡」がある。 (相生の松) 相生(あいおい、そうしょう、そうせい)とは種(または雄株・雌株)の異なる2本の木の幹や根がくっついたり、合着したりして1本の木のように見えることを言い、その姿から夫婦(妹背)の木と呼ばれ、夫婦和合の例にされている。日本には7種類のマツ属(クロマツ、アカマツ、ゴヨウマツ(ヒメコマツ)、チョウセンマツ(チョウセンゴヨウ)、ハイマツ、リュウキュウマツ、アマミゴヨウ)が自生している。クロマツ(黒松)は幹が黒く、海岸近くに育つ。一方、アカマツ(赤松)は幹が赤く、山地に育ち、赤松林に松茸が生える。「尾上の松」は、尾上が尾根の上の意味なのでアカマツである。 高砂神社にある「相生の松」は、クロマツとアカマツの幹の基部が合着したもので、現在の木は5代目である。
こうした相生の松が植えられたのは、高砂神社が再興された江戸時代以降の比較的新しい時代である。この曲のお陰で有名になった観光地・高砂神社の客寄せであったのだろう。加古川市の尾上神社にもクロマツとアカマツが合着した相生の松がある。同様に、相生の松は高砂・尾上に限らず全国に点在する。 なお、高砂市の西に位置する相生市の由来は、旧相生(おお)村むらで、昔の領主が相模の国の生まれであったためこの名になったという。相生の松とは無関係である。 (落ち葉掻く) マツは冬でも青々とした葉をつける常緑針葉樹。万物がみな枯れる冬、生命力を感じさせてくれることから、めでたい木とされる(西洋でクリスマスにヒイラギを飾るのと同じ)。また、千年生きると信じられた鶴が松に止まる絵(花札にもある)が示すように長寿のシンボルともなっている(マツの樹齢は300~500年で、数千年生きるスギよりは短い)。このため神聖な樹木とされ、神が天から降臨する際の目印(依代:よりしろ)となり、神を待つ(マツ)所となる。老夫婦はこの神聖な場所を掃き清めるために現れるが、同時に神に近い存在であることを暗示している。 詞章にある「落ち葉搔くなるまで命、永らえて」は、常緑の青葉が散り落ちるまで夫婦が共に長生きできたことを言っているが、落ち葉を搔く仕事は老人の役割であることも示唆している。松枝や松葉は油分に富むためよく燃え、燃料と利用されてきた。私も子供時代、松葉搔きをしたものだ。日本の「白砂青松」の海岸風景もこうした生活行動の上にあった。しかし、1960年代に始まる日本の燃料革命により、松葉掻きや枯れ枝拾いを行われなくなり、松林が管理なされなくなる。その結果、松くい虫(マツノマダラカミキリ)とそれを宿主とするマツノザイセンチュウが大発生し、日本のマツを大量に枯らした。その被害は松材だけでなく、景観の棄損や防風林の消失、土砂流出に及ぶ。庶民の食卓から松茸が消えたのも、そのせいである。先の東日本大震災で津浪に襲われた地域でも、松林が残っていれば救われた命はあったかもしれない。 (婚姻と高砂) かつては結婚式で「高砂や、この浦船に帆を上げて・・・」と「高砂」の一節がよく謡われていた。テレビの時代劇などでも見ることがある。この部分は「待謡(まちうたい)」といって、後シテが登場する前の部分に当たる。「高砂」では、ワキの友成一行が高砂から住吉へ向かう船路の様子を謡っている。 しかし、この直前の中入りで、シテの老爺は「住吉で会おう」と言って、姥と別れ、単身で小舟に乗り込み、沖に向かっている。めでたい結婚式で「別れ」はご法度のはず(能楽師の結婚式ではこの一節を謡わず「四海波静かに・・・」を謡う)。なぜこの一節が祝言になったのか? ヒントは曲中にある。老爺は住吉から通ってきている、つまり、通い婚である。姥は高砂で自分自身の生活基盤や財産を持っていて、経済的に夫に頼っていない。中世庶民史研究者の網野善彦氏によれば、室町時代の庶民女性は自分の生業を持っていて、経済的に自立していたという。性にも大らかな時代であったろう。そんな時代雰囲気の中にいたからこそ世阿弥は、夫の陰に隠れず、堂々とデュエットする姥像を作ることができたのだろう。互いに依存しあわない愛情-至高の夫婦(カップル)愛かもしれない。 しかし、時代は戦国へと移ってゆく。戦の時代は力(マッチョ)の時代だ。女は持っていた生業を男に奪われ、無産階級化し、奥に押し込められ、そして男の所有物になってゆく。男が全財産を掌握すると、その継承は(室町時代のように誰の種の子であっても財産が分与される母系的な相続は許されず)自分の遺伝子を持つ子供でなくてはならない。ではDNA分析のない時代、どうやって妻の生んだ子が自分の遺伝子を持っていると確認できるのか。いや、できないのだ。このため、姦通-今でいう不倫は「重ねて四つに切られる」死罪であった。だが、方法はあった。それは、他の男と交わったことのない女、処女を娶り、妻を外部と接触させず奥で囲い、監視し続けることだ。支配的立場にあった男たちはグルになってこの仕組み「嫁入」を作り上げた。 中入りの後、現れた里人(アイ)はワキに、作り上げたばかりでまだ人を乗せたことのない舟を提供するので、住吉へ向かうように勧めるくだりがある。処女航海である。舟を女(娘)と置き換えれば、嫁入行列となる。娘を無垢のまま、婚家へ安全に送り届ける寓意となる。「この浦舟」の一節が祝言となったのは、作曲時の男女対等の社会から戦国時代を経て男専制へと社会構造が大きく変わったことが背景にある。思うに、このアイ語りは当初からあったものでなく、男による女の支配が完成した江戸時代に挿入されたものだろう。 私ならば、「山川万里を隔つれども、妹背の道は遠からず~松もろともに、この年まで、相生の夫婦となるものを」の一節を祝言として謡いたい。 (松と権力者) 神聖な樹木であるマツは、古代より祭事を行う権力者と近い関係にあった。史記に「秦の始皇帝が泰山に登った時、激しい風雨に会い、小松の陰で雨宿りしたところ、その樹が急に伸び、枝を茂らせて、始皇帝を雨から守ったので、始皇帝は五大夫という爵位をマツに送った」という逸話がある。また、松の漢字をばらして十八公と呼ぶのも、三国時代の呉の名宰相、梓丁固が、松が腹の上に生えてきた夢をみて十八年後に三公の位にのぼった故事(呉録)による。 逸話・伝説に限らず、マツはその材質の特徴からも、為政者に重用された。松材は油分を多く含むため、耐水性があり、かつ曲げに強い。このため、橋や船などの交通関連の建造で使われるほか、防風林や護岸林として利用された。東海道の松並木も道路を海食から護り、田畑を塩害から守るためであっただろう。こうした公共事業以外でも、治安のためのかがり火の原木、記録書や命令書など文書管理に使う墨(松の油煙から製造)など、マツは権力者にとって欠かせぬアイテムであったはずだ。江戸時代の森林管理である「留山制度」では、直轄林での盗伐採は「木一本、首ひとつ」といわれるほどの厳し規制であった。 こうしたマツに対する扱いは能にも影響を与える。徳川氏が権力を掌握すると、その旧姓が「松平」であることから、松の位置はさらに向上する。能舞台の背後の板(鏡板)に大きなマツの図が描かれたり、「高砂」が他の曲を押さえて、脇能第1位となったりするのは江戸時代以降である。更に、曲の改変まで行われた。例えば、「鉢木」。多くの流派では「松はもとより煙にて。薪となるはことわりや」と謡っているが、徳川幕府から重用された某大流派では「松はもとより常盤にて。薪となるは梅桜」と完全に言葉を変えている。幕府に忖度して「よいしょ」をした訳だが、これでは大事に育てたマツを燃やしてまで客人をもてなそうとする佐野源左衛門常世の気持が伝わらないではないか! (余談) 始皇帝の逸話はマツの速い成長を物語っているが、実際にはそんな早いわけでない(1年で10cm程度、20年で2m程度)。それより、洪水後の荒地や噴火後の火山灰地でいち早く芽を出すパイオニアプランツとして有用性が高い。それはマツと共生する菌根菌(マツタケの仲間)が栄養を運んでくれるため、土壌の貧しいところでも生育できるからだ。マツ林が形成されると土壌流出が止まり、周囲に下草が生え、他の樹木も育ち、森林が形成されてゆく。ユダヤ人が入植する前のイスラエルは岩だらけの荒地であったが、植樹により国土の北半部は緑化された。植えた樹木の95%はマツである。雲南省の岩山も今は雲南松で覆われている。野火が起きるとマツは燃えやすく、毎年、かなりの面積を消失するものの、それでもマツを植え続けるのは保水力の高い2次林の形成を急いでいるためだ。 荒地を沃野に変える結構づくめのマツの植林だが、落とし穴もある。マツ葉は殺菌作用を持つ精油成分を含んでいて、他の植物の成長を阻害する。戦前、緑化や薪炭材として、成長の早いリュウキュウマツが沖縄から小笠原に移植されたが、その落ち葉は分解されにくいため小笠原の在来種の植生更新を妨げ、多くの固有種が絶滅の危機に瀕している。 |
||||||
見どころ/聞きどころ&演者の想い (聞きどころ) シテとツレが杉帚を持って橋掛りに出て、「高砂の松の春風、吹き暮れて~~」から始めて、舞台に入り、「それも久しきためしかな」まで約20分間、デュエット(二重唱)で謡います。シテとツレがデュエットする曲は「高砂」以外には、同じ脇能の「加茂」などわずかしかありません。ツレを勤めていただく村岡さんは山井綱雄師の一番弟子。昨年は「道成寺」を披き、女性能楽師として初めて斜入(落ちる鐘に斜めに飛び込む)を成功させました。金春流のホープです。うまくハモれるかがポイントで、婦唱夫随で謡います。 (見どころ) 動きが少ない前場ですが、ワキと問答の後、松の葉を掻く所作が前場で見どころとなります。金春流では老爺が松葉を掃く道具に杉帚を使っていますが、上掛りと呼ばれる観世流と宝生流(金剛流でも)では竹で作った熊手(竹杷(サラエ)と言います)を持ちます。この違いの理由はわかりませんが、掃き方は口伝になっていて、流派によって違っています。 ![]() メインの見どころはなんといっても後シテの舞。海から現れた壮年姿の住吉明神が颯爽とテンポの速い神舞を舞います。前シテの老爺と後シテの若い神、その年齢差の表現も見どころになります。 (演者の想い) 昨年末、後期高齢者の仲間入りした私は、シテの住吉の松の精と同じ老境。また、今年は結婚50周年、まだ無事連れ添っています。そして、私の姓は「松永」。「高砂」を演ずる条件が整いました。 これまでは亡くなった両親や友人たちの慰霊のため、能を演じてきましたが、今回は私と家族のために演じます。世阿弥が生きた時代のように男女が対等でイキイキと暮らせる社会になることを願って、精一杯舞います。 |
||||||
★演能のビデオを作成します 私が舞った「高砂」を録画したDVDまたはBD(ブルーレイディスク)を作成し、1部1000円(送料200円)で販売します。代金1000円は全額、能登半島地震被災者支援者に寄付いたします。支援団体は以下の3団体です。ご希望の団体をお選びください。 |
||||||
|
||||||
ご希望の方は、専用申込書(ここをクリック)にメディア種類(DVDまたはBD)、部数、寄付先を記入してお申込みいただくか、matsunaga*insite-r.co.jp(*を@に替えて)宛、メールでお申し込みください。発送は6月上旬を予定します。 |
||||||
|
謡曲 詞章 (ここをクリックすると印刷用のPDFが出ます。脚注付き)
登場人物 | 前シテ-老人(尉)、後シテ-住吉明神、ツレ-老女(姥、尉の妻) ワキ-阿蘇の神主、友成、ワキツレ-従者、アイ-高砂の里人 |
(ワキ、ワキツレが登場し、舞台へ入る。ワキとワキツレは道行を語る) | |
ワキ、ワキツレ | 今をはじめの旅ごろも、今をはじめの旅ごろも、日もゆくすえぞひさしき |
ワキ | そもそもこれは九州肥後の國、阿蘇の宮 の神主友成(ともなり)とはわが事なり。われいまだ都 を見ず候ほどに、この春思い立ち都へのぼ り候。又よき序(ついで)なれば、播州(ばんしゅう)高砂の浦をも一見せばやと存じ候 |
ワキ、ワキツレ | 旅衣すえはるばるの都路を |
ワキツレ | 旅衣すえはるばるの都路を |
ワキ、ワキツレ | 今日思いたつ浦の浪、ふな路のどけき春風の、いくかきぬらんあとすえも、 いさ白雲のはるばると、さしも思いし播磨がた、高砂の浦につきにけり。高砂の浦につきにけり |
ワキ | いそぎ候ほどにこれは早や。播州高砂の 浦につきて候。人来って松の謂(いわ)れを尋にょうずるにて候 |
(「真ノ一声」囃子に乗って、シテ(尉)とツレ(姥)が杉帚を持って登場する。ツレが先に出、一ノ松で止まり振り返る。シテは三ノ松で止まる) | |
シテ、ツレ | 高砂の、松の春風吹き暮れて、尾の上の鐘も、ひびくなり |
ツレ | 波は霞の磯がくれ |
シテ、ツレ | 音こそ汐の、みち干なれ |
(シテとツレは舞台に入り、対角に向き合う) | |
シテ、ツレ | 誰をかも知る人にせん高砂の、松も昔の友ならで、過ぎこし世世は白雪の、積り積りて老の鶴の、ねぐらに残る有明の、春の霜夜の起き居にも松風をのみ聞きなれて、心を友とすがむしろの、思いをのぶるばかりなり。 音ずれは松に事とう浦風の、落葉ごろもの袖そえて、木陰のちりを掻こうよ。木陰のちりを掻こうよ。 所は高砂の |
ツレ | 所は高砂の |
シテ、ツレ | 尾の上の松も年ふりて、老いの波もよりくるや。木の下陰の落ち葉かくなるまで命ながらえて、なおいつまでか生きの松、それも久しき例(ためし)かな。それも久しきためしかな |
ワキ | いかにこれなる翁に尋ぬべき事の候 |
シテ | こなたの事にて候か。何事にて候ぞ |
ワキ | この所において、高砂の松とはいずれの木を申し候ぞ |
シテ | さん候、高砂の松とは、とりわきこの松を申しならわし候 |
ワキ | さてさて高砂住の江の松に相生の名あり。當所(とうしょ)と住の江とは國をへだてたるに、何とて相生の松とは申すぞ |
シテ | さん候、古今集の序に、高砂住の江の松も相生の様に覚(おぼ)えとあり。尉(じょう)はあの住吉の者にて候。姥(うば)こそ當所の人なれ。知る事あらば申さ給え |
ワキ | ふしぎや見れば老人の、夫婦一所にありながら、遠き住の江高砂の、浦山國をへだてて住むというはいかなる事やらん |
ツレ | うたての仰せ候や。山川(さんせん)萬里(ばんり)を隔(へだ)つれども、互に通う心づかいの、妹背(いもせ)の道は遠からず |
シテ | まず案じてもご覧ぜよ |
シテ、ツレ | 高砂住の江の、松は非情の者だにも、相生の名はあるぞかし。ましてや生ある人として、年久しくも住吉より、通いなれたる尉と姥は、松もろともに、この年まで、相生の夫婦となるものを |
ワキ | 謂(いわ)れを聞けば面白や。さてさてさきに聞こえつる、相生の松の物語、所に聞きおく謂れはなきか |
シテ | 昔の人の申ししは、これは目出たき世の譬(たと)えなり |
ツレ | 高砂というは上代の、萬葉集のいにしえの儀(ぎ) |
シテ | 住吉と申すは今この御代に住み給う延喜(えんぎ)のおん事 |
ツレ | 松とはつきぬ言の葉の |
シテ | さかえは古今(こきん)あい同じと |
シテ、ツレ | み代を崇(あが)むる譬えなり |
ワキ | よくよく聞けば有難や。今こそ不審はるの日の |
シテ、ツレ | 光やわらぐ西の海の |
ワキ | かしこは住の江 |
シテ、ツレ | ここは高砂 |
ワキ | 松も色そい |
シテ、ツレ | 春も |
シテ、ツレ、ワキ | のどかに |
地謡 | 四海(しかい)波静かにて、國も治まる時つ風。枝をならさぬ御代なれや。あいに相生の松こそ目出たかりけれ。げにやあおぎても、こともおろかやかかる世に、すめる民とて豊かなる、君の恵みは有難や。君の恵みは有難や |
(シテはワキに向きいた後、正先に出て、小さく指し開き。左へ廻り大小前へ行き、大きく指し開いた後、ワキを向いて座る) | |
ワキ | なおなお高砂の松の目出たき謂れねんごろに申され候え |
シテ | ねんごろに申し上ぎょうずるにて候 |
地謡 | それ草木心なしとは申せども、花實(かじつ)の時をたがえず、陽春(ようしゅん)の徳をそなえて南枝(なんし)花はじめてひらく |
シテ | しかれどもこの松は、その気色(けしき)とこしなえにして花葉(かよう)時をわかず |
地謡 | 四の時いたりても、一千年の色雪のうちに深く、又は松花(しょうか)の色十(と)かえりとも言えり |
シテ | かかるたよりを松がえの |
地謡 | 言の葉草の露の玉、心をみがく種となりて、生きとし生けるものごとに、敷島(しきしま)のかげに、よるとかや |
(この部分は謡いません) しかるに長能が言葉にも、有情非情のその声、みな歌にもるる事なし。草木土砂、風声水音まで萬物をこむる心あり。はるの林の、東風に動き秋の虫の、北露になくもみな、和歌のすがたならずや |
|
中にもこの松は、萬木(ばんぼく)にすぐれて、十八公(しうはっこう)のよそおい、千秋(せんしゅう)のみどりをなして、古今の色をみず、始皇(しこう)のおん爵(しゃく)に、あずかるほどの木なりとて、異國にも本朝にも萬民これを賞翫(しょうがん)す | |
シテ | 高砂の尾の上の鐘の音すなり |
地謡 | 暁(あかつき)かけて、霜はおけども松が枝の、葉色(はいろ)はおなじふか緑、たちよる陰の朝夕に、かけども落葉のつきせぬは、まことなり松の葉のちりうせずして色はなお、まさ木のかずら永(なが)き代の、たとえなりけり常磐木(ときわぎ)の中にも名は高砂の、末代(まんだい)のためしにも相生の陰ぞひさしき。 |
(シテは杉帚を持って立ち上がり、正先に出て、松葉を掃く型をする。右へ廻り、大小前で指し開きをした後、ワキに向かって座る) | |
地謡 | げに名にしおう松が枝の、げに名にしおう松が枝の、老木の昔あらわしてその名を名のり給えや |
シテ、ツレ | 今は何をかつつむべき、これは高砂住の江の、神ここに相生の夫婦と現(げん)じきたりたり |
地謡 | 不思議やさては名所(などころ)の、松の奇特(きどく)をあらわして |
シテ、ツレ | 草木(そうもく)こころなけれども |
地謡 | わが大君の國なれば、いつまでも君が代の、住吉にまずゆきて、あれにて待ち申さんと、夕浪のみぎわ(水際)なるあまの小舟にうちのりて、追い風にまかせつつ、沖のかたへいでにけりや。沖のかたへ出でにけり |
(シテは立ち上がり、正先に出、船に乗り込む形をして、帆掛け船のようなしぐさで橋掛りへ行く) | |
(シテとツレ、中入り。アイが舞台に出て、高砂の松の謂れについて語り、老夫婦は松の精だと教える。ワキに新造船を提供すると、ワキとワキツレは舟に乗って住吉へ向かう) | |
ワキ、ワキツレ | 高砂や、この浦舟に帆をあげて |
ワキツレ | この浦舟に帆をあげて |
ワキ、ワキツレ | 月もろともにいでしお(出汐)の、浪(なみ)の淡路の嶋かげや。遠く鳴尾(なるお)の沖すぎて、早や住の江につきにけり。早や住の江につきにけり |
(「出羽」囃子が鳴り、住吉明神が登場。橋掛に出て謡う) | |
シテ | われ見ても久しくなりぬ住吉の、岸の姫松いく世経(へ)ぬらん、むつましと君は知らずや瑞(みず)がきの、久しき世世の神かぐら、夜のつづみの拍子を揃えて、すずしめ給え、宮づこたち |
地謡 | 西の海、あおきがはらの波間より |
(シテは舞台に入る) | |
シテ | あらわれいでし住の江の、春なれや、残(のこん)の雪のあさかがた |
地謡 | 玉藻(たまも)かるなる岸陰の |
シテ | 松根(しょうこん)によって腰をすれば |
地謡 | 千年の緑、手にみてり |
シテ | 梅花(ばいか)を折って首(こうべ)にさせば |
地謡 | 二月(じげん)の雪、ころもに落つ |
(シテは神舞を舞う) | |
地謡 | 有難の影向(ようごう)や。有難の影向や。月すみよしの神あそび、みかげを拝むあらたさよ |
シテ | げにさまざまの舞びめの、声もすむなり住の江の、松かげもうつるなる、青海波(せいがいは)とはこれやらん |
地謡 | 神と君との道すぐに、都の春にゆくべくは |
シテ | それぞ還城楽(げんじょうらく)の舞 |
地謡 | さて萬才(ばんぜい)の |
シテ | 小忌(おみ)ごろも |
地謡 | 指すかいな(腕)には、あくま(悪魔)を拂(はら)い、おさむる手には壽福(じゅふく)をいだき、千秋楽(せんしうらく)は民をなで、万才楽(まんざいらく)には命をのぶ。相生のまつ風、さつさつの声ぞたのしむ。さつさつの声ぞ楽しむ |
(シテ、留足を踏み、橋掛を帰り、幕へ入る) |
2024.4.3 upload
2024.4.3 update
All right reserved 2024 Insite Research Co. Ltd. Hidekazu Matsunaga